折角、熊本に来たのだから、昼飯でも食べながら、ドライブでもしようということになった。 はっきりした目的があったわけではないが、天気もいいし、の〜んびり過ごすには最高だ。 氷川から松橋そして218号線をひた走った。途中で通潤橋の看板が目に入った。 子供の頃からいつかは行ってみたいと思っていたところだ。 まさか還暦を過ぎて念願がかなうとは、嬉しかった。当然そこへ連れて行ってもらえるものと 期待した。「帰りに通潤橋に寄るんでしょう」と確認の意味で軽い気持ちで聞いた。 「ん?」、反応はいまいちだ。聞いて良かった。連れて行く気が無いようだ。 見慣れているからだろうか、あぶない。強気に出るしかない。 「行こうよ、連れてってよ。昔から見たくて見れなかったんだよ。折角、近くに来ているんだから」 とそんなことを強引にまくしたてた。ややあって、重い腰は上がった。もちろんゴーだ。 そして通潤橋に着いた。平日とあって、そう混んではいなかった。ラッキー。 もっと近くへ行こう。橋を渡ろう。上から覗いて見よう。橋をバックに写真だ。 「押すだけでいいですから・・・」人のも頼まれた。 上から下から眺めまわし十分に堪能した。きれいなフォルムだ。見事の一言。 実用品であり芸術品だ。 クレーンやトラクターなど土木建設機械がない時代に、積み上げただけで何百年ももつこんな構造物を よくぞ作れたものだ。形も崩れていない。感激した。 それは私だけではないと思うのだが、結局この日は、ここだけに終わった。 それでも最高に満足した。念願の国の重要文化財を思いがけずも見れたのだから。 通潤橋とは
通潤橋は灌漑用水を送るためにつくられた水路橋です。 建設者は矢部総庄屋布田保之助・工事を担当したのは卯助・宇市・丈八ら「肥後の石工」と 呼ばれる名工たちです。 工事は嘉永五年(1852年)12月から1年八ケ月を要しました。 通潤橋は何のためにつくられたのでしょうか。 まわりを深い谷に囲まれた白糸台地は水に乏しく田んぼの水はもちろん、飲み水も足りないような 状態でした。 このような人々の苦しむ姿を見かねた布田保之助は六キロメートル離れた笹原川から水を引き、 連通管の原理を利用した通潤橋を完成させました。 この工事の完成により白糸台地に百ヘクタールの 水田が開けました。 ![]() ■ 橋の長さ 75.6メートル ■ 橋の幅 6.3メートル ■ 橋の高さ 20.2メートル ■ 石管の長さ 126.9メートル 昭和35年2月、国の重要文化財に 指定されました 矢部町 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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まぁ〜いろんな角度から撮られましたねぇ〜通潤橋の立派さが伝わってきます。このアーチ型をこんなにきれいに、昔の技術でできたものだと感心します。ていうか、こうやってみると、熊本は捨てたもんじゃないですよね。あげていただいてうれしいかぎりです<(_ _)>
[ 弥勒 ]
2009/6/2(火) 午前 11:01
返信するチャコさん、
「肥後の石工」は、昔からすごい名工だったんですね。
それにしても、当時の政治は、持てる力を民衆のため、
世のために、活用したのですね。
私腹を肥やし、自己浄化の反省も出来ない今の政治は、
何と薄汚れてみすぼらしいのでしょうか
嗚呼、なんとかならんものでしょうか(脱線)
2009/6/2(火) 午前 11:44
返信する熱い人間がいないんでしょうねぇ〜自分が良ければ・・・政治家は生活困んないからわかりませんもんねぇ〜もとから断たなきゃだめと言いますが・・誰がもとから断立ってくれるんでしょうねぇ〜
[ 弥勒 ]
2009/6/3(水) 午後 3:44
返信する元から断つのは、「国民の皆様」ですね。
今は、まだまだ、裕福です。筵(むしろ)旗立てて騒ぐほど
困っていないということですね。切羽詰まっていません。
本当に困ったら、駄目なものは、この「国民の皆様」に抹殺されると
思います。
政治家も「国民の皆様」も危機感が足りませんね。
平和ボケです。それでいて「日本の平和のありがたさ」を
感じていないのは、天に向かって唾を吐いているようにしか
思えませんが・・・。
2009/6/3(水) 午後 4:34
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