偉人の名言集【82】■ 倉田 百三 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33511160.html大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家。 代表的な著書・・「出家とその弟子」。 親鸞とその弟子唯円を描いた戯曲。 歎異抄を下敷きにしているがキリスト教の影響を強く受けている。 発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持され、大ベストセラーとなった。 世界各国で翻訳され、ロマン・ロランが絶賛したことでも有名である。 恋するとき人間の心は、不思議に純になるのだ。
人生のかなしみがわかるのだ。 地上の運命に触れるのだ。 ■ 永野 修身 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33509277.html 大日本帝国海軍の軍人。 海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。 東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。 帝国海軍の歴史上、海軍三長官(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を 全て経験したのは永野だけである。 いま、永野修身閣下は、靖国神社に祀られ、墓所は、東京都世田谷区の浄真寺と、 地元高知の筆山墓地に置かれています。 上記はその永野が、開戦前に述べた言葉で、その子孫とは私達の事です。 政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、
戦うもまた亡国であるかも知れない。 すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、 戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、 戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、 われらの子孫はかならず再起三起するであろう。 統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、 もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、 勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。 ■石田 退三 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33507555.html 元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、 元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。 戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタ中興の祖」と呼ばれる 叔母さんの教育は「貧乏は駄目だ。
石田は無駄をとことん嫌い、無駄なお金を一切使わなかったといわれる。とにかく出世しなければ」という思想だった。 貧すれば鈍するということを身に徹して思い知らされているらしかった。 「貧乏していたら、まず第一に誰にも頭が上がらないじゃないか」ともいっていた。 それが近江商人の考え方で、私たちは朝から夜中まで、この思想でビシビシと鍛えられた。 とにかく我武者羅に勉強させられ、将来の栄光のために現在の困苦に耐える鍛錬を積んだことは、 のちの生涯のためにどれだけ役に立ったか計り知れないものがある。 これはトヨタの危機の際に累積赤字が蓄積し銀行に融資を断られたという苦い思い出があり、 「自分の城は自分で守れ」と、 内部留保をとことん増やして自前で必要な機械などを買うというやり方を行っていた。 この方針は現在でも受け継がれ、トヨタは「トヨタ銀行」と呼ばれるほど内部留保を多く持っている。 なおこの経営危機の際、当時の融資銀行だった東海銀行、三井銀行が支援した反面、 住友銀行は真っ先に融資回収に走ったため、終生、住銀との取引を許さなかった。 社長在任中は「けち」に徹し、紙も裏まで使い、鉛筆も短くなるまでとことん使ったという。 こうした節約でトヨタは無借金経営となり、現在まで続く優良な財務体質の基礎となった。 ■ 澤木 興道 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33505890.html 昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。 4歳で母を、7歳で父を亡くし、澤木文吉の養子となる。 1897年に出家を志して永平寺に入り、 1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争に従軍して負傷する。 退役後、佐伯定胤に唯識を学び、丘宗潭の命で熊本県の大慈寺に入り、 旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。
「何にもならんもののためにただ坐る」 という只管打坐を貫き、
その一生を通じて実践して見せた。現在、その思想、指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある 曹洞禅センターにも受け継がれている。 屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。
人人みな「自己」を生きねばならない。 お前とわしとどちらが器量がいいか悪いか そんなこと比べてみんかてええ。 ■ ビリー・ジョエル ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33503899.html ロック歌手、ピアニスト、作曲家。 ポップで親しみやすいメロディ・ラインと、 大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で、 1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。 全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、 アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。 代表曲に、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、 日本での人気が高い「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。 君の好きなことを見つけて、それをしたらいいんだよ。
好きなことをしないなんて、人生の浪費だよ。 ■ 竹田 和平 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33501889.html 「タマゴボーロ」で有名な竹田製菓の代表取締役で、104社の上場企業の大株主でもある。 これは個人が大株主となっている上場企業数で国内一位の数字である。 また、百尊家宝、株式投資など事業家として活躍しているほか、 日本の未来を担う人材育成のため「まろわ講」を主宰し、 自身の経験や財産を人材投資という形で社会還元している。 結局、明日というのは、「どうなる」じゃないんですよ。
明日は我々が「創る」んです。 ■ 奥田 民生 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33499275.html シンガーソングライター及びユニコーンのメンバー。 音楽プロデューサーとしても活動している。 ソロ活動の傍ら、女性デュオ「PUFFY」のプロデュースや、 井上陽水とのユニット「井上陽水奥田民生」をはじめとした様々な ミュージシャンとのコラボレーションなど、多方面で活動している。) 手と手がはなれたら、またつなげばいいだけのことなんです。
■ 西田 文郎 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33497217.html 強運の法則 経営者に真の成功を指南する「強運開発」コンサルタント。 強運を掴む独自のプログラムで、これまで多くの大成功を目指す経営者やアスリートたちを、 ナンバー1の成功に導いている。 とくに、経営者だけを対象とした日本経営合理化協会主催の「経営脳力全開塾」では、 門下生の中から日本を元気にするリーダーが続出し、 全国から問い合わせが殺到するほどの人気を博している。) 人は失敗をすると、
「あのときこうしたのがダメだった」 「上司がなんとかしてくれたら失敗しなかったのに」 などと、すぐに失敗を認める発言をする。 しかし、成功者は「失敗を認めない人」なのである。 これは、なにも傲慢だからではない。 彼らは 「あんなの失敗のうちに入らない」 「たいした失敗じゃない」 と、失敗を失敗と思わないのだ。 多くの人は失敗をすると、反省という負のエネルギーでクヨクヨし、 不安要素をさらに強化してしまう。 しかし、成功者たちの脳は、 失敗すればするほど新たな発想を思い浮かべ、ワクワクしているのだ。 なぜなら、彼らは成功する自分を、信じているからなのである。 失敗は認めず、口に出すな。 失敗を楽しむ信念のある人間になれ。 ■ ココ・シャネル ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33494202.html フランスの女性ファッションデザイナー。 フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。 12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、 行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育つ。 田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、 当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。 人生がわかるのは、逆境のときよ。
■ 坂東 眞理子 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33493434.html 官僚、評論家。昭和女子大学学長を務める。 東京大学文学部心理学科卒業後の1969年に総理府入省。 1975年総理府婦人問題担当室が発足した時、最年少の担当官として参加、 1978年に日本初の「婦人白書」の執筆を担当した。 1980年よりハーバード大学へ留学。 統計局消費統計課長、埼玉県副知事、在豪州ブリスベン総領事(女性初の総領事)、 総理府男女共同参画室長、内閣府男女共同参画局長等を経て2003年に退官。 キャリアの多くにおいて女性政策に携わり、その立案をリードした。) 夢を持っているかどうかが、何かあったとき、もうひと頑張りがきくかに大きく影響します。
夢はなかなか実現しないものではありますが、夢にさえ描けないことには実現することはありません。 ■ 関口 房朗 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/33491409.html
ベンチャー起業家の草分けとして知られる人物であり、 「アウトソーシング」という思想を日本に持ち込んだことでも有名。 1974年に技術系アウトソーシング会社「株式会社名古屋技術センター」を設立。 1985年に「株式会社メイテック」に社名変更し、 1987年には名古屋証券取引所2部上場を果たす。 失敗したからこそ、学べるものがある。
いや、正確には失敗だけが、人を成長させるのだ。 |
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