偉人の名言集【123】■ 高橋 是清 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34545696.html幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。 第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。 栄典は大勲位子爵。 幼名は和喜次(わきじ)。 内閣総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。 二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。 享年82(満81歳没) 栄枯盛衰は人生の常である。
順境は、いつまでも続くものではなく、逆境も、心の持ちよう一つで、 これを転じて順境たらしめることも出来る。 逆境の順境は、心の構え方一つで、どうにでも変化するものである。 ■ 犬丸 徹三 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34543921.html 実業家。元帝国ホテル社長。 上海、ロンドン、ニューヨークのホテル勤務を経て、 帝国ホテル常務で支配人だった林愛作に招かれる。 1919年帝国ホテル副支配人となり、その後、常務、代表取締役、専務等を経て、 1945年社長。 1970年顧問となる。 マッカーサーが着任した際には、 焼け野原となった東京を視察する彼の運転手をした。 私のところでは特別なサービスはしない。
つまり普通のサービスなのだ。 しかしそれはあくまでも心のこもったものでなくてはならない。 それから、自分がしてもらいたいと思うことを 客に対してしてあげるのがほんとうの親切だと、 いつも従業員に教えている。 ■ 新島 襄 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34541950.html 宗教家、教育者。 同志社英学校(後の同志社大学)を興した。 福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている 世の中の事はすべて根気仕事である。
根気の強いものが最後の勝利を得る。 ■ 小泉 信三 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34540092.html 日本の経済学者。今上天皇の皇太子時代の師父。 1933年(昭和8年)〜1946年(昭和21年)まで慶應義塾長。 父は慶應義塾長(1887年(明治20年) - 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任。 小泉信三の長男信吉は、昭和17年10月22日南太平洋において戦死した。年二十五。 父母と祖母と妹二人とを後に遺した。 その愛する息子を偲び、余暇をぬすんで日夜書き綴った手記は、涙をそそらずにはおかない。 日本の師表と仰がれた畏敬すべき小泉信三の別の一面、 たぐいまれな暖い家庭の父の姿を見ることができる。 「海軍主計大尉小泉信吉」より 元慶応義塾の塾長で、今上天皇の指導役も務めた小泉信三さんが出征する息子に宛てた手紙より
君の出征に臨んで言って置く。 吾々両親は、完全に君に満足し、君を我が子とすることを何よりの誇りとしている。 僕は若し生れ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。 同様に、若し我が子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。 人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。 君はなお父母に孝養を尽くしたいとおもっているかも知れないが、 吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。 親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。 今日特にこのことを君に言って置く。 今、国の存亡を賭して戦う日は来た。 君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。 二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、 悔ゆるところなき立派な生活である。 お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。 お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 父より。 ■ チャールズ・チャップリン ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34537643.html イギリスの映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家。 映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。 愛称は“チャーリー”、または“シャルロ(Charlot)”。 各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品にふれることは容易である。 また、バスター・キートンやハロルド・ロイドと並び、 「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。 独裁者アドルフ・ヒトラーを皮肉った映画『独裁者』で有名だが、 そのモデルとなったヒトラーと誕生年月が同じ、 1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。 もともと人間の運、不運などというものは、
空行く雲と同じで、 結局は風次第のものに過ぎない。 ■ 野上 洋幸 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34536253.html モティベート・トレーナーとしても活躍する実業家、コンサルタント。 20代前半から金融や保険などの外資系企業でセールスマンとして活躍した後、 2001年に人材育成・営業コンサルティング会社 「サクセス・ファクトリー・インターナショナル株式会社」を設立。 世界有数のコンサルタント「ブライアン・トレーシー」氏の公認トレーナーでもあり、 モティベート・トレーナーとしても活躍する。 世の中で他人の助けを受けずに
生きていける人は、一人もいません。 これは忘れてはならないことです。 ■ 益田 親施 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34533936.html 益田家第33代当主。 幕末期の長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。 長州藩の永代家老の家柄である益田家の益田元宣の三男として生まれる。 1849年、兄が死去したため、家督を継いだ。 1853年、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。 1856年には長州藩の国家老となった。 1858年、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って 攘夷を決行すべきと幕府に提言し、 「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」 という藩の三大原則を打ち出した。 大賢は愚に似たりと古語にもいうぞ。
鋭さを面にあらわして歩いているような男は才物であっても第二流だ。 第一流の人物というのは、少々、馬鹿に見える。 少々どころか、凡人の眼から見れば大馬鹿の間ぬけに見えるときがある。 そのくせ、接する者に何か強い印象を残す。 ■ 沢木興道老師 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34531853.html 昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。 三重県津市に生まれ、4歳で母を、7歳で父を亡くし、澤木文吉の養子となる。 1897年に出家を志して永平寺に入り、 1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争に従軍して負傷する。 退役後、佐伯定胤に唯識を学び、丘宗潭の命で熊本県の大慈寺に入り、 旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。 これより、各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。 1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、 鎌田茂雄や酒井得元を始めとする学生の坐禅指導を行い、 それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、 徹底した坐禅教育を行った。
「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、
その一生を通じて実践して見せた。現在、その思想、指導方法はアメリカの スタンフォード大学にある曹洞禅センターにも 受け継がれている。 グループができると、
その中に麻痺状態が発生して、 良い悪いがわからなくなってしまう。 われわれが世の中を遠ざかっているのも 逃避しているのではない。 この麻痺状態をおこしたくないからである。 昔から山野に才を求むというが、 この山野とは無色透明な世界のことだ。 ■ 松原 惇子 ◇ http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/34530532.html
エッセイスト、評論家。 結婚に失敗して、職業を転々とし、38歳のとき、自分の体験を通して独身者の気持ちを書いた 『女が家を買うとき』で執筆活動に入る。 『クロワッサン症候群』では、雑誌「クロワッサン」が提唱した、 独身の流行に踊らされて後悔した女たちを論じてベストセラーとなった。 その後も、自身の加齢とともに、それに応じたシングル女性の生き方を問う本を、 多数、刊行し続けている。 著作活動だけでなく、シングル女性の今と老後を応援する団体、 NPO法人「SSSネットワーク」をたちあげ、活動に力を注いでいる。 「不安」の裏にあるものは、
つまるところ「欲」。 |
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