■ 峠 三吉
◇出典 http://blogs.yahoo.co.jp/e_dream21/35926940.html ![]() 序 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ ![]() わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ 八月六日 あの閃光が忘れえようか! 瞬時に街頭の三万は消え 圧しつぶされた暗闇の底で 五万の悲鳴は絶え 渦巻くきいろい煙がうすれると ビルデイングは裂け、橋は崩れ 満員電車はそのまま焦げ 涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島 ![]() やがてぼろ切れのような皮膚を垂れた 両手を胸に くずれた脳漿を踏み 焼け焦げた布を腰にまとって 泣きながら群れ歩いた裸体の行列 石地蔵のように散乱した練兵場の屍体 つながれた筏へ這いより折り重なった 河岸の群も 灼けつく日ざしの下でしだいに屍体と かわり夕空をつく火光の中に 下敷きのまま生きていた 母や弟の町のあたりも焼けうつり 兵器廠の床の糞尿のうえに のがれ横たわった女学生らの 太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の 誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば すでに動くものもなく 異臭のよどんだなかで 金ダライにとぶ蝿の羽音だけ ![]() 三十万の全市をしめた あの静寂が忘れえようか 帰らなかった妻や子のしろい眼窩が 俺たちの心魂をたち割って 込めたねがいを 忘れえようか! 仮繃帯所にて あなたたち 泣いても涙のでどころのない わめいても言葉になる唇のない もがこうにもつかむ手指の皮膚のない あなたたち 血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ 糸のように塞いだ眼をしろく光らせ あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ 恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが ああみんなさきほどまでは愛らしい 女学生だったことを たれがほんとうと思えよう 焼け爛れたヒロシマの うす暗くゆらめく焔のなかから あなたでなくなったあなたたちが ![]() つぎつぎととび出し這い出し この草地にたどりついて ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める 何故こんな目に遭わねばならぬのか なぜこんなめにあわねばならぬのか 何の為に なんのために そしてあななたちは すでに自分がどんなすがたで にんげんから遠いものにされはてて しまっているかを知らない ただ思っている あなたたちはおもっている 今朝がたまでの父を母を弟を妹を (いま逢ったってたれがあなたとしりえよう) そして眠り起きごはんをたべた家のことを (一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない) おもっているおもっている つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって おもっている かつて娘だった にんげんのむすめだった日を。 1945年8月6日、 広島に投下された原子爆弾により命を奪われた人、 また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、 そして生きているかぎり憂悶と悲しみを消すよしもない人、 さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ 峠 三吉 - 雑 感 -(e_dream21さん) 本日8月6日は、広島に原子爆弾が投下されて70年目を迎えます。 原爆の犠牲となった御霊に哀悼の想いを捧げ、ご存命の被爆者の皆様、 そしてご遺族の皆様とともに、世界の平和実現、核兵器廃絶の実現を誓うべく、 8時15分に1分間の黙とうを捧げたいと存じます。 1945年(昭和20年)8月6日、 爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠町)で被爆。 敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、 広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務や雑誌『ひろしま』編集の かたわら、1951年(昭和26年)には「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を 自費出版、原爆被害を告発しその体験を広めた。 1952年(昭和27年)3月、新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、 静岡赤十字病院に入院。その後は再び精力的に活動に奔走する日々を送る。 1953年(昭和28年)2月、創作活動・社会活動に耐えうる健康な身体を 確実にするため、持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、 国立広島療養所に入院。肺葉切除手術を受けたが術中に病状が悪化、 14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。 36歳没 。被爆から8年後のことだった。 ◆画像出典:峠三吉の最期 克明に 文学仲間の故坪田さん 遺品の手帳を確認 | ヒロシマ平和メディアセンター ◆画像出典:原爆詩集 ◆画像出典:風のように炎のように ◆画像出典:魔法使いの杖:広島原爆記念日・・・ |
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